瀬川小児神経学研究所の設立にあたって

現在、『瀬川記念小児神経学クリニック』が位置する千代田区神田駿河台2丁目は、時を遡ること江戸時代初期、摂津のお国のひとつ高槻藩の旗本・大久保彦左衛門が屋敷を構えた地であったと記録されています。代々、医家のご家庭である瀬川家の始祖は、高槻藩医を務められており、この神田駿河台の地とは切ってもきれないご縁があります。
1973年に、8代目の瀬川功先生より引き継がれた小児科病院を、小児神経専門クリニックへと改め、『瀬川小児神経学クリニック』の名のもと開業に至ったのが、9代目の瀬川昌也先生です。当時、世界唯一の私立の小児専門神経クリニックであったことから、今でもこのクリニックの隅々には、全国から先生を頼って来院される患者さんの立場に立った病院づくりへの情熱を感じることができます。

開業にあたっては「小児の神経症の治療と研究を実現する総合的な医療センターをつくろう」というのが、瀬川先生の目的であり、その試みこそがこのクリニックでした。小児科外来の中で、実に約3割以上が小児神経の疾患を持っている一方、「専門医がおらず、鳥取大学以外は大学病院にさえ小児神経科講座はない」という実情を踏まえ、「民間でも小児神経学の研究を」と、自ら、診療と研究を結びつける場をつくられたのです。

また、瀬川先生を語る上で、ある少女との出会いがあったことも記しておかねばなりません。それは、クリニックの開業より3年ほど前にあたる東大小児科医局時代の1970年、ある親子が「午後になると下肢が固くなる症状が現れる」と来院されました。これこそ、今後の瀬川先生の道を決定付けるかのような出会いであり、その少女が訴えた症状こそ、実はのちの「瀬川病」の第一例目だったのです。
先生は、翌年1971年には、「著名な日内変動を呈する遺伝性進行性ジストニー」と題して、その研究結果を発表。この「瀬川病」の発見は、示唆に富む大変重要な疾患で、睡眠研究やモノアミン神経疾患の研究につながるものであると同時に、日本の神経内科・小児神経科学会にとって偉大な功績であったことは言うまでもありません。

そして、2014年12月14日、瀬川昌也先生がご逝去なさるまでの41年1か月。その間、瀬川小児神経学クリニックは全国から多くの患者様が来院する日本の中心的なクリニックとしての地位を確立したことは、多くの方々のご承知の通りであり、国内外の研究者の方々が先生主催のシンポジウムに参加されたことで、「瀬川」の名前も世界で不動のものとなりました。

2016年には、その師の想いを受け継ぐかたちで、門下生により、クリニックを法人化。『昌仁醫修会 瀬川記念小児神経学クリニック』としてその診療を受け継ぐことと同時に、瀬川昌也先生の偉業を讃え、後世に残すことを目的として、『瀬川小児神経学研究所』を創設するに至りました。生前、瀬川昌也先生は、常に後輩の育成に熱意を注がれてきましたが、私たちもこの研究所の業績が、神経学・小児神経学を学ぶ者、また神経難病を患っていらっしゃる全ての患者様の光となることを切に願っています。

最後になりますが、瀬川昌也先生は「なぜ小児神経学を専門としたのか」という問いに、「もともと好きだった、自分の医療に対する考え方にも合っていた」と答えていらっしゃいます。言葉では「小児」とは書きますが、あくまで小児に発症したという意味で、同じ患者様を何歳になろうとも診察していくのが小児神経学。そういった意味でも、常に学問を追及され数多くの発表と論文を残された先生が、一人の患者様を一生診ていくことになる小児神経疾患を専門としたことは必然だったように思えますし、その「一生つきあう」という想いで取り組まれていたお姿は、まさしく今の私たちにとってのお手本です。 

そして、その想いを受け継ぐ者として、患者様が発症した「神経系の発達から老化までの症状」を予見した治療を続けていくためにも、この『瀬川小児神経学研究所』が果たす役割は大きくなるはずです。

——— 瀬川先生、どうぞ天国から、この研究所、そして私たちをお守りください。

2019年11月 
瀬川小児神経学研究所 所長 星野恭子